ニュース解説

【2025年9月2日 愛知県一宮市・妊婦死亡事故】なぜ、お腹の子は「被害者」ではないのか?

jiko-note

1. 失われた命と、その腕の中で始まった命

一つの命が失われた、その同じ瞬間に、もう一つの命が、あまりにも過酷な運命を背負って、この世に生まれてきました。
愛知県一宮市で、妊娠9カ月だった女性が車にはねられて亡くなり、帝王切開で生まれた長女には、重い障害が残りました。

「娘も被害者だ」

ご遺族の、そして11万人を超える署名に込められたこの悲痛な叫びは、しかし、今の法律の前で、あまりにも高い壁に阻まれようとしています。
今回はこの、あまりにも悲しい事故を題材に、なぜ、お腹の中にいた赤ちゃんが、法律上「被害者」として扱われないのか。そして、その壁を乗り越えるために、今、何が問われているのか。その核心に、切り込んでいきたいと思います。

2. 事故の基本情報(報道に基づく現時点の事実)

  • 発生日時: 2025年5月21日 午後4時前
  • 発生場所: 愛知県一宮市(市道)
  • 関係者:
    • 乗用車(加害者側): 50歳女性
    • 歩行者(被害者側): 31歳女性(妊娠9カ月、死亡)
    • 長女: 事故後、帝王切開で出生。重度の脳障害。
  • 裁判の状況: 運転手の女性は過失運転致死の罪で起訴。長女への罪は、現時点では問われていない。

3. このニュースの本当の論点①:立ちはだかる、刑法の大きな「壁」

💡 この記事のポイント

  • 今の刑法では、生まれる前の「胎児」は「人」とは見なされない。
  • そのため、胎児への加害行為で、直接罪に問うことは非常に難しい。
  • 焦点は、事故と障害の「因果関係」を、客観的な証拠で証明できるかにある。

なぜ、これほどまでに悲惨な結果が起きているにもかかわらず、長女への罪が問われないのか。
それは、今の日本の刑法が、お腹の中にいる「胎児」を、独立した「人」ではなく、「母体の一部」として考えているからです。

これは、非常に冷たく聞こえるかもしれません。しかし、「もし胎児を『人』と認めてしまうと、人工妊娠中絶が殺人罪にあたってしまう可能性がある」といった、非常に難しく、デリケートな問題が背景にあるのです。

この「法の壁」がある限り、検察も、簡単には長女への罪(過失運転致傷)で起訴することができない。これが、ご遺族が直面している、あまりにも厳しい現実です。

4. このニュースの本当の論点②:壁を越える唯一の道、「因果関係」の立証

では、このままでは、長女が受けた被害は、法的に無視されてしまうのでしょうか。
いいえ、そうではありません。検察は「補充捜査を行う」と表明しました。これは、壁を越えるための、唯一の道を探る、ということです。

その道こそが、事故と、長女の脳障害との間の「因果関係」を、医学的・科学的に証明することです。

📣 豆知識
こうした複雑な事案で最も重要視されたのが、この「因果関係」の立証です。
「母親が死亡するほどの事故だったのだから、当然、お腹の子にも影響があったはずだ」という感情論だけでは、残念ながら、裁判所を説得することはできません。

警察や検察は、これから、

  • 母親が病院に搬送されてから、帝王切開が行われるまでの、詳細な医療記録
  • 事故の衝撃が、胎児に具体的にどのような影響を与えたのかという、産婦人科医や脳神経外科医などの専門家の見解
  • 過去の類似事故の裁判例

といった、客観的な証拠を一つ一つ積み重ね、「長女の脳障害は、他のいかなる原因でもなく、まさしくこの交通事故によって引き起こされた」ということを、誰の目にも明らかな形で証明しなければなりません。

これは、決して簡単な道のりではありません。しかし、この「因果関係」の立証こそが、長女を正式な「被害者」として認めるための、唯一の光なのです。く、社会のあり方そのものを問いかけているように思います。

5. おわりに

お父様が、涙ながらに語った長女の名前の由来。そして、「パパ頑張ったよと言えるようにしたい」という言葉。その一つ一つが、私たちの胸に突き刺さります。

感情的な正義感だけで、事実を捻じ曲げてはならない。しかし、法律という硬直した壁の前で、救われるべき命が見過ごされてもならない。
私たちは、この裁判の行方を、そして「因果関係」の捜査がどのように進められるのかを、強い関心を持って、静かに、そして真摯に見守っていく必要があるのだと思います。

亡くなられたお母様のご冥福と、今、懸命に命と向き合っている長女の未来を、心からお祈り申し上げます。

ABOUT ME
はちわれサクラ
はちわれサクラ
万年巡査長
元・警察官 × 損害保険会社の事故調査員。 ひき逃げ、死亡事故から保険金の不正請求まで、様々な交通事故の調査を経験。 法律の条文ではなく、事故の「現場」を語ります。「元・中の人」の実務目線で、リアルな情報だけを解説。 (現在はセミFIRE中)
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